30代〜40代にした仕事

学生時代にマイクロプロセッサに習熟していたのでそれをそのまま仕事にすればよかったのですが、当時業界ではまだメインフレームが主流という意識は根強く、時代が変わっても主柱事業のメインフレームをやっていれば社内で主流を歩めるだろうという期待はあったのですが見事に裏切られ、大型計算機の先行きは風前の灯火でした。ペーペーの人間でも技術的な行き詰まりは明らかだったのです。

そんなこんなで東京で9年と9ヶ月働いた後、長野県塩尻市にあるプリンターメーカ、セイコーエプソンに転職しました(地名と事業をここまで書いて社名を隠してもしょうがない)。情報処理の花形であるコンピュータの中央処理装置から地方の周辺機器メーカに転職するのって当時は相当勇気がいったし、悩みに悩んだ挙げ句、月100時間残業して家も買えないような生活に見切りをつけました。


さて、仕事の話し。

最初取り組んだのは当時主流の300dpi=dot per inchだった解像度を600dpi並みの画質で印刷する回路を設計することでした。最終的にはプリントエンジン自体が600dpi以上になったのでその技術的な意義は薄れましたけど。

次の仕事がCPUを68000系のCISCからSPARC/MIPSのRISCに変更です。当時ARMはまだなかったと思います。CPUは今やIntel系とARM系一色ですが、商業的に成功しないと命令体系が綺麗だのクロックが速いだの言ってても無意味だということを思い知りました。今でも肝に銘じています。68系やRISCやPowerPCのことを言ってます。

モノクロだったレーザプリンタがカラー化する、ということでコントローラもそれに対応することになりました。エンジンとコントローラのハードウェアインターフェースはそれほど変わらないので、ソフトウェアでカラー化することは可能で、遅いのさえ我慢できれば作るのはそれほどでもないのですが、会社としてはコントローラでの差別化が必須ということで、RGBからYMCKへの色変換やハーフトーン化まで回路化しました。その頃が一番しんどかった。論理合成技術がなかったらあんな複雑な回路は作れなかったと思います。

カラーに目覚めて最後はインクジェットの開発部隊に移籍させてもらいました。色の専門家ではないのと、後から入ったのとで、生産技術的なことしかできませんでしたが、半導体以外のメカ開発の一端を覗いたのはいい経験でした。

再び自分の技術者としての行き詰まりを感じ、早期退職可能な年齢にも近づき、またまた転職を考え始めました。

〜続く

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