プロフィール

このページをご覧いただきましてありがとうございます。以下、代表の服部俊幸本人が書いております。2019.6.4 updated

2歳頃、祖母と。

まずは履歴書風に

1959年 岐阜県大垣市に生まれる
※誕生日は本人確認の重要情報なので書きません。ちなみに今上天皇と学年が同じ、母は明仁上皇と同い年で誕生日が同じ1933.12.23生まれです。
1978年 岐阜県立大垣北高等学校卒業(ちなみに嫁は同級生)
※同校を卒業された有名人には以下のような方々がおられます。
・立川敬二氏(宇宙航空研究開発機構理事長、元NTTドコモ社長)
・村瀬清司氏(元社会保険庁長官)
・風船太郎氏(大道芸人)
・広瀬隆雄氏(米国在住の投資家。当時ご近所で中学から同級生)
1982年 東京大学工学部計数工学科卒業
※電気・電子関係の学科に進みたかったのだが当時は人気が高すぎて進振りで第二希望(造船とか金属とか)に行かざるを得なくなるリスクを避け、応用物理コースに進路変更。応用物理に属する3コースのうち、自分の成績で行けそうな計数工学科・計測コースを選択。ここは自動制御、つまりセンシングとか信号処理とかを意図している学科・コースで、いわゆる”IoT業界”でご飯を食べている今となってはよかったのかもしれません。同じ計数工学科を卒業した有名人には次のような方がおられます。自分も早くそうならないと。
・野口悠紀雄氏(超整理法で有名)
・鳩山由紀夫元首相(首相になる前は同じ学科卒業を自慢できたが今となっては微妙)
・猪子寿之チームラボ代表取締役(過去仕事上で接点はあったのだが面会はできていない)
※ちなみに共産党委員長の志位和夫氏はお隣の物理工学科卒業です。

1982年 日本電気株式会社入社
1991年 セイコーエプソン株式会社入社
2006年 アイテック株式会社入社
(2009年2月~2013年8月アイテック株式会社代表取締役)
2013年 アーミン株式会社設立・操業開始 今に至る
2019年 本サイトを開設。ちなみに「塩尻ムセン」と言う会社や店は実在しません。昭和時代に街でよく見かけた家電を扱う電器屋さんのパロディです。いかにもありそうな名前でしょ?


次に技術遍歴・職歴、技術バックグラウンドなどを書いてみます

①「マイキット」
親から学研のマイキットを買ってもらって来る日も来る日も回路を作っては壊し作っては壊して弟と遊んだ記憶があります。そんな裕福でもなかった家庭でこんな高価なものを買ってもらったおかげで今の人生があります。親父(故人)・お袋(健在)、ありがとう。

②「電子ブロック」
今となってはマイキットと電子ブロックとどっちを先に買ってもらったか記憶が定かでないですが、こちらも同じように来る日も来る日もこれで遊んでいました。当時は回路設計の知識がなかったので説明書に書いてあるものを次々に試すことしかできませんでしたが。最終的にはブロックから電子部品を取り出して、ラジオを空中配線して作って終わりにした覚えがあります。

③「ラジオの製作」
中学時代、「ラジオの製作」という雑誌を毎月取っては擦り切れるまで読みました。弟は「初歩のラジオ」です。取り替えっこしながら読みました。ちなみに「ラジオの製作」は「電子工作マガジン」と改称し季刊で細々(失礼)続いているようです。

④「マイコン」との出会い その1
ネットで調べてもなかなか見つからないのですが、確かポラロイドが世界で初めて(インスタント)カメラにマイクロプロセッサを内蔵した、という記事を雑誌で読んで異常に興奮した覚えがあります。こんなちっちゃい機械の中にコンピュータが内蔵されて複雑な制御をしている!って。

⑤「マイコン」との出会い その2
大学入試をパスするまでは学業に専念するため電子工作関係は封印していたのですが、晴れて入試を突破し上京してからは憧れの秋葉原の電子街に通うようになりました。NECがbit-INNというアンテナショップをラジオ会館の最上階に開設していたので毎週のように入り浸ってましたね。手始めにNECの8080Aをチップで買ってきてLEDとトグルスイッチでボードコンピュータを手作りしました。これが「コンピュータ技術者」の始まりです。その後、職業としてコンピュータに関わりたくて大学卒業後NECに入社することになります。

※大学に入ってから遅まきながら「アマチュア無線技士」を取って10Wで開局したのですが、興味がマイコンの方に急速に移ったため局免許は自然消滅させ、ハムからは足を洗いました。無線技士の方は終身有効なので今からでも再開局はできるはずです。


以下、職業技術者としての技術遍歴、業務履歴になります。

⑥メインフレームの設計

NECではACOSシリーズの超大型機を設計していました。ちょうどPC-9801シリーズの出始め、パソコン通信が始まったくらいの時期で、時代が大きく動いていく予感はその頃からありました。そんな時代の流れに抗うような、生活のためのお仕事としてマンモスのように滅びていく製品をやり続けることにモチベーションが上がらず、かと言って社内で異動しても一から出直すことになるので転職するのと一緒だろう、だったら両親と一緒に暮らせる田舎に行こう、との思いで地方に本社のある会社に転職することを決断します。

⑦モノクロ・レーザープリンタの設計

セイコーエプソンに転職して最初の仕事がモノクロレーザープリンタの制御基板の回路設計です。当時のプリンタエンジンの解像度が300dpiで文字がゴツゴツしているのを、600dpi相当にスムーズにするアルゴリズムとか、フォントやイメージを圧縮するアルゴリズムを回路化しました。その後マッキントッシュ専用のプリンタを企画したり、CPUの選定から始めて制御基板全体を企画設計したり、ひとつの製品を世に送り出すにはどうすればいいのかをこの時期に学びました。メインフレームだと関わる人が多すぎて自分の製品と思えなかったものが、自分がやった、と初めて思えた幸せな時期でした。

⑧カラー・レーザープリンタの開発・設計

ちょうどいいタイミングでレーザープリンタのカラー化に立ち会うことができました。画像処理のための1画素当たりの情報量が1bitから24bitに急激に増え、フルカラー24bitをトナーの4色に落とす処理など、制御回路に負荷が大きくかかることになったので、アルゴリズムの回路化などに精を出しました。

⑨インクジェットプリンタの開発

アルゴリズム開発を極めたい思いから会社で主流のインクジェットの部隊に異動を申し出、しばらく色の高精度化、安定化の仕事をしました。

⑩無線の仕事を始める

会社の方向性も、自分の仕事も閉塞感が漂う中、縁あって無線の会社に二度目の転職を果たします。

そこでの最初の仕事は、アクティブRFIDという、電池を内蔵して自ら発信する無線タグの事業化でした(SUICAやnanacoは外部から電力を供給し電池は内蔵していない)。「児童の登下校を見守るシステム」のような限られたジャンルで今でも使われているようです。

形を変えてBluetoothとスマホによる「iBeacon」が出てきて、昔自分たちが考えたアイディアが普及する兆しを見せています。ビジネスとして成功するためには、「進んだ技術を開発する」よりも、「どうやって市場を創造していくか」、が重要だったということでしょう。この時期、Bluetooth Low Energyという低消費電力無線やスマホが普及したことも大きく影響しています。

結果的にビジネスとして大きく育つことはありませんでしたが、技術の種をビジネスにする、business developmentと言う仕事の貴重な経験をさせてもらいました。そんな中で「プロダクトアウト」と「マーケットイン」の考え方を学びました(もちろん和製英語です)。

⑪環境発電無線に手を染める

会社の事情で2009年から代表を務めることになりました。製造委託の本業が急激に縮小する中、新事業の立ち上げを迫られ、最終的に行き着いたのが「環境発電無線」です。これが今の仕事につながっています。技術的にはようやく実用化に耐えられるものができたものの、ビジネスとしてはまだまだ道半ばというところです。


12. 独立する

会社の事情で事業を分割して独立することになりました。最初は環境発電無線の引き継ぎに注力してきましたが、顧客回りをしているうちに「プロダクトアウト」は大企業のやるべきことで、個人や零細は「マーケットイン」を指向するべき、との感覚を得ました。世の中にないものを、無名の会社や個人が広めようとしても普及する前に資金とやる気が枯渇すると言うことです。しかしながらマーケットが欲しているからと言って不得意で不案内なことを今更始めるわけにもいかず、試行錯誤を繰り返してきました。

電子機器、特に小電力無線機器をビジネスに結びつけて行く方法は掴んだつもりですが、次の技術・プロダクトのタネがなかなか見つからない。また個人でやるには安くて小さな製品を大量に売る大企業のビジネスモデルでは到底太刀打ちできない。

と言うわけで日々模索してきた結果辿り着いたのが「電子工作」「教育・趣味」「SNSによる情報発信」。つまり「役に立つけどつまらない、面白くないことはしない。自分は面白いこと、楽しいこと、やりたいと思えることだけやる」ことに意識を変えました。期せずして子供の頃に弟と来る日も来る日も電子回路で遊んでいた時代に戻った感があります。

ここまで